―以下引用―

以前、貧乏とかお金持ちというのは、そもそもお金という概念があるからこそ見る事ができるんだ、というようなことを書いたんですが、二元的な物事にはそれを生み出した上位概念があって、それに気づいてしまえば二元のどちらかで悩む必要がないんです。

物理的実現の有無とか文章表現の二元性という、「どちらかしか見れない」ものしか見ないから自分の都合が悪いものだと困ったり都合の良いものを見る必要が出てくるんです。その両方を見渡せる立ち位置に気づけばいいんです。

自己観察というのはそういうものの見方、習慣のようなものなんじゃないかと思います。そして質問の背景に気づくというのは、自分がどういうものの見方をしているかに気づくという事だと思います。

引用元:自己観察式まとめ

確かに自分がそういう考え方をしてるなとか気づけると楽になります。通常で考えてしまう物の二元性、有る無いとかのさらに上から見渡せる立ち位置という事ですね。そういう立ち位置に立てると通常時より一気に視野が広がった気がしますよね。

関係ないですが、花粉症の季節で特に目がやばいです。抵抗せず治そうと思ったのですが、(確かそんな人いた)我慢できずに目薬は使ってしまいました。花粉症で苦しむ自分を観察したり、抗わず痒くなってもむずむずしてもいいとか自然に受け入れる事ができたら強いのかなと。まぁ薬を使えば煩わしい思いをせずに済むのですが、実験的に気にならなくなるくらいまで治したいです。

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自己観察や元祖1式をやってみて、いつの間にか忘れてて、またやってみて…と気まぐれにゆるく続けてます。

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