―以下引用―
基本的に「叶える為の」アプローチはありません。「叶える為に」という思考の前提にある不足に気づくと、不足からのアプローチにどれほどの効果があるのか疑問です。ここでは思考に気づく事で、分離という錯覚に気づいていくという見方を提案しています。分離が錯覚で、自分が世界そのものだと気づくと「叶う」「叶わない」という概念が意味がなくなるんです。
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そうやってこれがどういう状態なのかはっきりしたいのは、そしてそのまま浸っていていいのかを聞くのは、その状態でいれば「叶うかどうか」の確信を得たいからですか?でもそれだと「叶える為に」その行為をしようとすることになりますよね。であれば↑の通りです。
引用元:自己観察式まとめhttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-404.html
結構エゴまみれで不足に陥ってしまうことのある私は、しょっちゅう叶えたいとか思いますが、その錯覚の不足に気づけという事ですね。叶う、叶わないという概念が意味なくなるという本当に前提から違う所から見てますよね。わざわざ不足の立場にたって叶えようとしてるのはアホらしいという事はよく聞きます。
かといってなんか楽になる為の気休めではありません。
>単なる気の持ちようじゃないんですよね?自己を客観視することで苦しみから距離を置けて、楽になったでしょ?それで生きていってくださいね、ではないですよね?
→逆にお聞きしたいんですけど、チケットや過去スレでは「現実は変わらなくても気の持ちようで幸せだからそれで満足してね」みたいなこと書いてる人はいなかったと思うし、私も「現実を選べる立ち位置」についてのことばかり書いてるんですが、そこはスルーしてるんでしょうか。
引用元:自己観察式まとめ
>多分大多数の人は「あれが欲しいこれがしたい」とか、謂わば「特定の願望」を望んでるんじゃない?いつもそこで板挟みなんだけど。「特定の願望を叶えたい」んだけど、何故か賢人さんには「安心感を得たいんだよね?」みたいな諭され方する気が‥?安心感はあるけど「特定の願望」は叶ってるという気分や状態にはなれてない‥
→まあ大体は欲しい物というのは「特定の何か」でしょうけど。要は欲してる「何か」の本質が何なのか知れという事です。
顕在意識(3%程度)で「何か」を欲してるということは、潜在的な領域(残り97%と言われてる)では、たくさんのストックされたデータにその「何か」を欲するに至った経緯があるわけです。
だから表面的な部分で「何か」を願い続けても、実現の領域にはピンと来ないんです。そこで潜在的な領域で「何か」を通して欲してる「本質的なもの」が何なのかに気づけば、現実の領域に引き渡されるというしくみ?です。その本質的な願望を蔑ろにして「特定の願望」にばかり目を向けてても難しいと思います。「諭された」という表現に「誤魔化された」と思ってる印象があるんだけど、「誤魔化された」という気持ちが、本質的に欲してるものを感じることを妨げてるなら本当に安心感を感じてるかどうか、もう一度向き合ってみるのも良いと思います。
引用元:自己観察式まとめ
ほんとに自己観察さんあらゆる質問に答えてくれててありがたいです。基本的に普通より離れた視点から見てますよね。