一瞬気づいたりする事でもすごく癒されたり、楽になるのですが、自己観察さんはそれを確立して、もっといつでも浸れる溶け込んでいるという状態だったのでしょうか。自分のような凡人でも練習や繰り返しでそうなれるならやってみる他ありません。
ー以下引用ー
まずは「観察してる立場」に立つことが、すべての始まりですかね。
「観察してる自分」に気づいて、それを確立することで「ある」に気づく事が出来るし、そこにもっと溶け込んでいけば、完全性の中に「私」が消え去っていきます。
「私」が無い状態っていうのは、Being、存在そのものであり、純粋な意識であり、そういう状態だから、「私」が生まれる瞬間に気付けて、「世界」が起こってくるのを見ることが出来る。
「私」が無い状態にいることと、「私」が無い事に気づく事は違う。
殆どの方が実現したいと思ってる「願望」ではそれで十分可能じゃないかと思います。それこそ「何でかは分からないけど叶った!」でいいんじゃないかな。
引用元:自己観察式まとめ
観察してる立場にいると、世間でいう良い悪い、勝ち負けとかの判断がなくなるので楽になる気がします。更に「私」が無い状態、これは私はまだ出来てないような気がして未熟な為よく分かりません。存在そのものという状態こそが、願望を叶える力を持つという事でしょうか。以下も参考になりました。
「どうにもできない」と言われると絶望を感じますよね。でも「どうにも出来ない」のはエゴを採用している限り、あなたにはどうにも出来ない」です。「エゴにはどうにも出来ないんだ」と気づく事によって、「どうにも出来ないエゴ」の立場から「自由に選べる全体の場」に立つことが出来るという意味ですよ。
「どうにも出来ない」ことを絶望的に感じてるエゴではなく、「どうにも出来ないと絶望してるのはエゴで、自分じゃなかったんだな」とエゴを余裕で眺めてみてください。
そのあなたは「どうにも出来ないあなた」ではありません。
引用元:自己観察式まとめ
http://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-404.html
まさに投影元の映写機の立場に戻るっていう事でしょうか。エゴに振り回される時はこういった余裕で眺めれる存在を思い出したいです。
少し話ズレますが、昨日自己観察さんのなんで現実に決定権を与えるの?っていうくだりの文章を読み返していたら、今日朝起きた時に最近ショックで振り回されてた現実に対して「それ違うでしょ」みたいな突っこみが急に自分の中で起きてすごく安心したんですよね。これが現実に決定権を与えない事か、現実に勝ったような感じになりました 笑 些細な事かもしれませんが、こういう繰り返しなんだろうなーとまだまだエゴに振り回される私は思います。このブログ好き勝手にしてますが、自分の中では現実に流されないようにするため役に立ちつつあります。