―以下引用―

思考に気付いている意識という観点からすると、「行動が必要か不要か」というのは無意味な話です。「行動しなくちゃ何も始まらない」「行動しなくても大丈夫」はいずれも思考だからです。それは「私が行動している」という思考を信じてることが前提の議論です。ですが実際何か行動が起こっている時、よーく気づいてみてみると、「行動している主体」というものが存在しないという事に気づく事が出来ます。

試しに「コップを持ち上げる」とか「椅子から立ってトイレに行く」とかなにか行動をしている(と思ってる)時に、よく気づいてみましょう。思考以外で、確かにその行動をしていると言える主体が、明確に存在するでしょうか。

常に変化し続ける流れの中で、様々な事が現れては消えていきます。それを後付けで「私が行動した」とレッテルを貼ってるという事ですね。

様々な思考と一体化している人は、「勉強しなくては試験に受からない」「でも何もしなくても大丈夫らしい」と、色んな矛盾した思考で葛藤しながら、その時々で一番信じられる思考に従うという事です。

思考の影響を受けないでいると、傍から見ると行動しているように見えても、本人は「自分で行動している」という認識は薄いです。(または全くない)

行動は自然に起こる。気づいたらしてしまってる。自分が動いているようで世界に動かされている。何の抵抗も感じずに行動が出来る。世界が勝手に動いてくれる、とか。

勉強をするということが起こってきても、受験のために必要だからではなく、流れに乗って気楽にやってるんです。

同じ「勉強をする」という現象が起こったわけですが、思考で「嫌だけどしなきゃいけないからする」のと「自分がしている」という思考に囚われず、自然に起こってることに気づいてるだけでは全然違います。

思考から自由になると、思考に伴う罪悪感、努力、不安、達成・・からも自由なんです。何も関係ない。何も意味がない。それが自由です。

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「不安は見つめるだけでいい」「何もしなくていい」なんて思って、行動を起こさず人生停滞してる人。

これは「私は何もしない」という思考と一体化してるだけだと、様々な思考の影響下で人生停滞と感じる思考や感情に振り回されてる状態という事ですね。

行動している主体が存在しない事を認識出来ていなかったとしても、個人という認識が緩んでいる時は「何もする必要がない」状態とニアリーイコールです。

本当に何もする必要がない事に気づいてる状態だと「何もしなくていいんだからどうのこうの」と言い訳めいたものもありませんしね。

引用元:自己観察式まとめhttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-404.html

ものすごい感覚的な事を自己観察さんは教えてくれてる気がします。あくまで思考に囚われず自然にしてたらいいという事ですかね。自分が行動してるという意識がそもそも無いと。行動する、しないが思考だからそういうのに縛られるなという事かと特に元祖1式とかで思考を止めようとすると、行動も止めるみたいに捉えてしまうかもしれないのですが、思考を止めるといつもよりむしろ動いてたこともありますよね。それを後から行動とレッテルづけてるという事でしょうか。とにかく感覚的な事で頭で考えるより先に動いてたみたいな事あると思うのですが、常にそんな感じでいれるといいですよね。

今日から年末年始の休暇に入る人もいるみたいでなんだか気分が明るくなります。早く旅行とか行きまくれる世界になってほしいです。

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自己観察や元祖1式をやってみて、いつの間にか忘れてて、またやってみて…と気まぐれにゆるく続けてます。

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