ー以下引用―
エゴ=思考、特に不足の方向に向いてる思考として、大体の場合無意識に思考を垂れ流してるんですけど、ちょっと意識的になってみるだけで「あ、今、○○って思った」とか気づけますよね。で、その「ちょっと意識的になってみた」感じというのは、さっきまでの「無意識の思考の垂れ流し状態」からパッと飛び出した状態なんですね。
何かを気づいた時のことを思い出してもらえると分かると思うんですけど、「気づき」って一瞬の、純粋でクリアな、直感的なひらめき、みたいなものなんですよね。夜空で一瞬ピカッと光る雷のような。本当は「あ!」くらいのものですけど、それを言葉で表現すると「あ、今、○○って思った」となりますよね。
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その一瞬の気づきがあった瞬間というのは「無意識の思考の垂れ流し状態」から抜け出た瞬間なんですね。よくそれは「フリ」とか「自己分析」とか言ってますけど、それは瞬間的に思考の外側に飛び出すことができても、気付きというのは本当に一瞬の事なので、ほとんどの場合次の瞬間には思考の中に戻っているんですね。一瞬光った後は元の暗闇なんです。
だから「気づく」ところまではできてるんですけど、その後思考やら判断やらが入ると、それが「気づいたけど苦しい」とかなるんです。気づいた後に「けど」が付くという事は、気付いた後に何かしてるんです。気づいたエゴに対して判断やら分析をしようとするエゴと同化してるんです。
私は別の領域に意識があるときは「気づいてるだけでいい」と書いてますが、逆を言えば、別の領域では「気づく事しか出来ない」んです。
「エゴが○○って言ってくるー」と気づいたら、もうそれだけなんです。そこでそのエゴをどうこうしようとは思わないんです。その思考が自分を苦しめてる思考だなと気づいたとしても、「その思考はよくない思考だ」という判断や分析が出来ないのでただ「そうなんだな」という感じしかないんです。だからエゴが何を考えていようが何を言っていようが関係なく「気づいてるだけ」なんです。
その「気づいてるだけ」というところに留まり続けるのは、今までの習慣としてなかったことなので意識的にそこにいようとしないと、どうしても思考のほうに戻ってしまいます。そして「気づいたけど苦しい」とか「どうにかしなきゃ」よかエゴのほうにいってしまうんですね。でも「エゴに気づけたから」というとこで自己観察してると思ってるんだと思うんですけど、それは違いますよって事です。
エゴと同化してる時は主観になってます。主観で「苦しい」と言ってる時は観察になっていません。だから「自己観察してるけど苦しい」というのは「客観視してるけど苦しい」ってことなので、それは自己観察(客観的に観察)出来てないよってことなのです。
だから、自己観察という意味では「エゴに気づいた意識」のほうが大切だということなんですね。そこが主観ではなく客観視できる場所です。そこに意識の焦点を合わせて留まってると、エゴがどんなことを言ってても「苦しい」と感じることはないんです。
引用元:自己観察式まとめ
1年くらいこのブログほったらかしていましたが、最近まためちゃくちゃ自己観察さんにハマってます。現実の仕事とかで苦しい事があるとやっぱ元は自分だよな~と自己観察さんとか読み返したくなります。お盆休みも(短いけど)別の領域に浸るを中心にやってみようと思います。やってみるじゃなくていつも別の領域にいたことに気づくという事か・・。旅行とか行くのもいいですが、別の領域に浸って癒されたいです。気づくだけもハッとしますが、そこに意識的に留まるやっていきたいです。